今朝はいつもの食ネタではありません。
東日本大震災から4年が経ちました。
あの日はとても繁忙な年のでした。わたしの勤める工場もフル稼動でした。
大勢のお客様や、仕入れ会社、協力会社が来場されていて忙しい一日でした。
突然の大きな揺れ!
毎年の訓練の賜で、全所員と来場者は即座に工場から屋外へ避難しました。
私は、日頃の所業の悪さの所為か、この日は何故か私以上の管理職が不在でした。
何度目の揺れのあと、エントランスホールの大型液晶TVに写し出された仙台空港の映像に目を奪われました。
東北地方の協力会社が多く、購買部門が電話連絡を試みますが全く繋がりません。
その後、工場中の設備を停止させ、帰宅可能な者は帰宅させましたが、来場者は帰る術がありません。交通機関は麻痺しておりましたので。
応接室や会議室を開放し、備蓄の食料で一夜を過ごしてもらいました。当然、主要な社員も残りました。
家族は、家内はたまたま家に居りました。
娘は本屋のアルバイト初日で落下した本の片付けが最初の仕事になりました。
深夜に一旦20㌔の距離を歩いて帰宅し、家族の顔を見てから原付で会社に戻りました。
船橋でもこんなですから、被災地の事は想像もつきませんが、後々入ってくる情報はとても辛いものでした。
後日、私供のクリーンルームは天井が一部落ち、純水設備も故障し修理に追われました。
計画停電を想定したシフト勤務を急遽導入しましたが、不慣れな為、全員は疲労困憊なりましたが被災地の比ではありません。
習志野でも海寄りの地域では液状化現象が起き、断水や停電状態が続きました。
家内と娘と支援物資の寄付に行ったり、僅かですが募金もしました。
友人や会社の同僚で東北出身者は会社を休んで自力で帰った者もいます。
関わりの有る無しに関わらず、皆の無事を祈り、仕事をする事しか出来ない日常に悶々としながら数日、数週間と過ごして今があります。
忘れることが出来ない、忘れてはいけない出来事でした。
一日でも早い、更なる復興を願っております。